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ブロ研 [ブロンコス研究所]

NFL DENVER BRONCOS について独自研究を行うブログ

アンドリュー・ホーキンスの話

NFL 雑記

NFLアドベントカレンダー 第7日目の記事です。

 

www.adventar.org

 

 

1年半くらい前に読んで面白かった記事になります。

 

現ブラウンズのWR アンドリュー・ホーキンスが、自分自身について書いている話で、身長わずか169センチの無名選手がNFLを目指す、苦難の物語です。

 

前に翻訳しちゃったものの、他チームの選手ということもあって、そのまま放置していたのですが、プロデイの話とかいろいろ面白いので、企画に参加したのを機会に紹介してみます。

かなり長い記事なので注意です(テキトー翻訳)

 

 

元記事   

Coming Up Short | The Players' Tribune

Whatever It Takes | The Players' Tribune

 

 

 

第1部

 

僕はいつも試合前に泣いてしまう。時にはタオルが必要になるくらいだ。チームメイトには「Hawkはいつでも泣いてるな」とからかわれるけど、もし僕と同じ経験をすれば、誰でも感情的になるはずだ。防具のパッドを身に着けるたびに、これまでの道のりを思い出す。

 

それは2007年、サンクスギビングの週末だった。僕はトレド大学での最後の試合を終えて、プロを目指すべきか悩んでいた。困難な道のりであることは理解していた。小さな大学出身の、小さな数字しか残していない、小さな選手がプロを目指す。僕はジムに行って体重計に乗った。161ポンド(73kg)

「これはNFL選手の体重じゃないな…」そう思った。

 

僕は決心した。可能性は低くてもプロを目指そうと。だけど、そのことは秘密にしておいた。誰にも打ち明けずに、僕は毎日トレーニングに励んだ。笑われたくなかったし、きっと信じてもらえないだろうと思ったからだ。

誰も僕に注目していなかった。コンバインにも招待されなかった。エージェントすらいなかった。エージェントはプロ入りできそうな選手しか相手にしてくれない。

 

そこで僕は、エージェント探しから始めることにした。だけど、なんのコネもなかった僕は、知恵を絞るしかなかった。

 

僕は偽のメール・アカウントを作り、トレド大学のアシスタント・コーチを名乗って、「いかにアンドリュー・ホーキンスという選手に可能性があるか」という推薦のメールを、片っ端からエージェントたちに送信した。

 

誰かひとりでもエサに食いついてくれれば、それで良かった。だから、Craig Schaeffer (埋もれた才能を探している新進のエージェント)が連絡してきた時には、僕も彼もお互いに少し興奮していた。

 

こうやって、僕はエージェントを手に入れた。

 

確かに褒められた行為ではなかったかもしれない。しかし、僕はそれくらい必死だった。プロ入りするためにできることはなんでもやる。すべてをやって無理なら、受け入れて生きていける。後悔だけはしたくなかった。

 

次にやるべきこと、それはスカウトの目に留まることだった。コンバインにも、オールスターにも招待されていない僕には、大学のプロデイが唯一のチャンスだ。

 

プロデイのドリルは順調だった。40ヤード走は4.33秒で、これはその年のコンバインで3番目に速いタイムだった。垂直跳びは38インチ、ショートシャトルは3.84秒と、どの数値もなかなかの記録だった。

しかし、もっとも不安だったのは身体測定だ。いくらスピードがあっても、サイズ不足というだけでリストから消されてしまうかもしれない。僕の身長は5フィートと6インチ半(約169cm)しかなく、体重もワークアウトで数ポンドは増えてはいたものの、まだまだ軽かった。

 

僕はまた知恵を絞ることにした。

 

プロデイの前日、僕はクラフト店のMichael’sに寄って粘土を購入した。肌の色に近いその粘土の塊りを、自分の踵の下に貼り付けると、試合と同じようにテープを足首までぐるぐると巻いた。これで僕は数インチ身長が高くなった。体重を量る前には、両方のポケットにそれぞれ2.5ポンドの重りを忍ばせて、体重を5ポンド(2.3kg)増量させた。

 

NFLのコンバインでは下着一枚の姿で、身体測定が行われる。これはゆるい雰囲気のプロデイだからこそできた事だった。

すべての測定が終わった時、僕は記録上で身長5-8(173cm)、体重182(82.5kg)になっていた。身長5-6(169cm)、体重161(73kg)だった選手にとっては、プロ入りへの大きな進歩だ。

 

プロデイが終わると、もはやトリックが通用する余地はなかった。僕はドラフトで指名されないだろうと分かっていたし、ドラフト外で契約することも望み薄だった。だから僕はCFL(カナディアン・フットボール)か、AFL(アリーナ・フットボール)を目指していた。しかし、その前にはまずトライアウトを受けなければならない。トライアウトではごまかしは通用しない。実力がすべてだ。

 

僕は、最初にCFLのハミルトン・タイガーキャッツのトライアウトを受けた。しかし契約はしてもらえなかった。次にAFLのクリーブランドグラディエーターズのトライアウトを受けたけど、ここでも契約してもらえなかった。どちらのチームも僕に同じこと言った。「君には素晴らしい才能がある。連絡するよ」

 

きっと彼らは僕の電話番号を無くしてしまったんだろう…

 

苦しい時期だった。自分はクレイジーなのかもしれないと感じた。CFLやAFLでも通用しないなんて。人生で初めて、自分が思っているほど才能はないのかもしれない、そう思った。

 

そんな時にもうひとつの(最後になるかもしれない)チャンスが訪れた。NFLクリーブランド・ブラウンズからトライアウトに招待されたのだ。その年、ブラウンズのコーチたちは、それぞれが推薦する選手を新人トライアウトに招待することができた。そして幸運なことに、トレド大学の元コーチがブラウンズにいて、僕を招待してくれたのだった。

僕はスカウトに認められて呼ばれたわけではなかった。そして、その新人キャンプには51人のトライアウトを含む、73人が参加していて、ただ1人の契約枠を手にしようと争っていた。まだまだ困難な道のりだった。

 

僕はそのトライアウトで大活躍した。何人ものコーチやスカウトたちが「君はここにいるなかでベストの新人選手だ」と言ってくれた。しかし、2008年当時にはまだウェス・ウェルカーのような小さいスロット・レシーバーの波は来ていなかった。そして、結局はサイズ不足を乗り越えることはできなかった。ブラウンズは僕と契約しなかった。

 

こうして僕はNFL、CFL、AFLから拒否された。

僕の2008年シーズンは終わった。

 

 

 

僕は卒業生のアシスタントコーチとして、母校のトレド大学に戻った。僕はスカウティングに興味があり、いつかはNFLGM職に就きたいと希望していた。そして以前、NFLデトロイト・ライオンズから、トレーニング・キャンプ期間のインターンシップとして契約をもらっていた。

 

僕の仕事、それはワイドレシーバーのスカウティングだった。

 

当時のライオンズには、カルビン・ジョンソン(メガトロン)以外に特筆する選手はいなかった。ワイドレシーバーの練習を確認し、スカウティング・レポートを毎日提出しながら、僕は「彼らより僕の方が優れているのに」としか考えることができなかった。

 

また、僕はこの仕事を通して、NFLのチームがどのように大学の選手を調べているかを知った。スカウトがすべての選手を確認することは不可能なので、彼らは大学のコーチが提出する有望なシニア選手のリストに頼っていた。

 

僕はトレド大学のリストを確認してみた。そこに僕の名前は載っていなかった。

これは衝撃的だった。痛みなのか、怒りなのか、その両方だったのか、とにかくその事実は僕に火をつけた。

 

ライオンズは僕にインターンシップ契約の延長をオファーしてくれた。いずれはフルタイムで雇うという約束もしてくれた。しかし、それには選手としての復帰を完全に諦めるという条件があった。スカウトとして新しいキャリアを始めるか、一度は拒否されたプロに再挑戦するか、どちらかを選択しなければならなかった。

 

僕はトレド大学のリストに名前がなかったせいで、公平なチャンスを与えられていなかったことを知った。このままでは終われない。夢を捨てることはできない。スカウティングの仕事をしたことで、自分がNFLで通用することにも気がついた。あとはそれを証明するだけだ。

 

ライオンズの仕事を失って、新たなやる気を得た僕は、次の動きが決まるまで友人たちの家を転々とした。カウチで眠り、洗濯室の棚がクローゼットになった。僕が払うのは電気代だけで、友人たちは家賃を請求しなかった。おかげで僕はトレド大学でフルタイムのコーチをやることができ、週末は地元のゴルフ場でキャディをして、さらにお金を稼いだ。

 

ある日の午後、友人たちとテレビを観ていた時に、新しいリアリティ・ショー「4th and Long」という番組のことを知った。番組のホストはマイケル・アービンで、勝ち残った出場者1人がダラス・カウボーイズのトレーニング・キャンプに参加できるというものだった。友人は僕に「挑戦してみろよ」と言った。僕は乗り気がしなかった。リアリティ・ショーなんてうさんくさいし、僕らしくない。

 

しかし、考えれば考えるほど、可能性があるように思えた。そして僕は番組に電話をかけた。失うものなんて何もないのだから。

 

ほとんどの出場者はすでに決まっていて、残りはフロリダとテキサスでトライアウトが行われることになっていた。だけど、僕には旅費がなかった。そこで、番組スタッフに「トライアウトの代わりにオーディション用のテープを送らせてもらえないか」と尋ねてみた。

彼らは「可能性は低いですよ」と言ったけど、僕は慣れっこだった。

 

僕はブラウンズのトライアウトでワークアウトした時のテープに、自分のことを語った映像をつけて一緒に送った。

 

僕は30本のコピーを送った。10本を翌日便で発送し、10本を2日便で発送し、10本を普通郵便で発送した。間違いなく届くように。

2週間後、番組から電話があって、合格だと告げられた。ロサンゼルスで60人の選手がワークアウトを行い、そのうちの12人だけが番組に出演できる。こうして僕は新たなチャンスを手に入れた。

 

(この後、NFLコンバイン会場周辺で、カウボーイズのジェリー・ジョーンズを見かけて探し回り、自分を売り込んだ話は長くなるので省略w)

 

僕はワークアウトを勝ち残り、番組出演を決めた。これに優勝すればカウボーイズのキャンプに参加できる。僕は出演者のなかでベストの選手だと言われた。しかしそれでも優勝することはできなかった。僕は2位だった。身長5-6(169cm)のレシーバーをキャンプに招待しようなんて正当化するのは難しい。マイケル・アービンにも同じことを言われた。つまり、僕には最初から勝ち目はなかったのだ。

 

いつもと同じ理由、サイズ不足だ。

 

僕はマイケル・アービンのリアリティ番組で優勝できなかった。 しかし、番組出演は新たな扉を開けてくれた。CFLへの道だった。

 

番組に出る前から、CFLのモントリオール・アルエッツが僕に興味を持っていた。僕は2週間ごとに、NFLの全32チームと、CFLの全8チームに郵便を送っていたので、アルエッツはすでに僕のフィルムと情報を入手していた。番組出演前、僕は(保険として)彼らとフューチャー契約を結んでいた。そして、番組での活躍のおかげで、僕はアルエッツの最終ロスターに残ることができたのだった。

 

こうして僕はちょっとだけ夢に近づいた。

 

 

 

第2部

 

多くの困難を経て、CFLと契約できたのは嬉しかった。だけど、僕の最終目標はあくまでもNFLだった。

 

アルエッツでの1年目、NFLクリーブランド・ブラウンズでは、George Kokinisが新GMに就任していた。彼はウェス・ウェルカーのようなクイックなレシーバーを探していて、チーム内の多くの人たちが「ワークアウトは良かったけど、サイズ不足で契約できなかった選手がいる」と、僕のことを伝えていた。

そこで、Kokinisは「アルエッツと交渉して、君を獲得したい」と電話をくれた。だけど、アルエッツ側はその提案を拒否した。僕はがっかりしたけど、理解もできた。

 

当時のCFLでは、1年目のシーズンが終わると、チーム側に2年目の契約オプションがあった。しかし、選手にはシーズン後の3ヶ月間、NFLのトライアウトを受けて契約できる期間があった。なので、焦る必要はまったくなかった。ブラウンズのGMが僕に目をつけている。ワークアウトに呼ばれれば、きっと契約してもらえるだろう。

 

あとは、その時を待つだけだった。

 

その間、アルエッツはCFLの優勝決定戦、グレイカップを目指していた。その準決勝、残り4分、僕はスクリーンパスをキャッチして、不自然な形でタックルされた。もう少しでNFLに手が届く、そんな時に僕は足首を骨折した。僕は手術を受けて、プレートと6本のスクリューで骨を固定した。もうブラウンズが契約してくれる希望はなくなった。僕は歩くのがやっとの状態だった。

 

救急車の後ろに座り、泣いていたことを覚えている。痛みではなく失望の涙だった。僕は母親に電話して「すべて終わったよ」と伝えた。もうこれ以上の失望、失敗を受け入れることはできなかった。母親はいつものように僕のために祈ってくれた。だけど、僕は混乱していた。もしかしたらすべては「オマエはフットボールを諦めた方が良い」という神様の教えで、間違っていたのは僕だったのかもしれない。

 

その夜、僕はすべてを諦める寸前だった。

 

アルエッツはその年のグレイカップで優勝した。そして、チームは2年目のオプションを行使して僕と契約した。僕はNFLのキャンプに行く代わりに、足首のリハビリをしてアルエッツに復帰することになった。僕の仕事はフットボール選手だ。どれだけがっかりしていても、給料が貰える仕事を放り出すことはできなかった。

 

アルエッツは翌2010年もグレイカップで優勝した。僕は限られた出場機会ながらも、良いシーズンを過ごすことができた。2年連続の優勝とCFLでの活躍、もう一度NFLに挑戦できるかもしれないと思った。

 

僕は、ブラウンズでのミニキャンプ、リアリティ・ショー、CFL、これまでの映像をすべてまとめて、自分のハイライトテープを作り、それをYoutubeにアップして、NFLチームにも発送した。その結果、ラムズベンガルズ、2チームからトライアウトの連絡があった。

 

僕は最初にベンガルズのトライアウトを受けた。そしてラムズのトライアウトを受けるためセントルイスに向かう途中、ベンガルズから連絡があった。

NFLで初めての契約オファーをもらって僕は泣いた。息子が誕生した時を除いて、あれほどの素晴らしい感情を経験することはできないだろう。「神様ありがとう!」そう思った。

 

しかし、契約については慎重に精査する必要があった。当時のベンガルズには、チャド・ジョンソン、テレル・オーウェンス、ジェローム・シンプソン、アンドレ・コールドウェル、ジョーダン・シプリーが揃っていて、契約してもチームに残るのは困難だった。そこで、僕はラムズのトライアウトも受けることにした。ラムズの方が生き残るチャンスがありそうだったからだ。そして僕はラムズと契約した。

 

ついに僕はNFLのチームと契約した。NFLでやる準備はできていた。

 

その1ヵ月後、NFLロックアウトに突入した(簡単に言うと、経営者側によるストライキみたいなもの。詳細はWikipediaを参照)

 

ロックアウトの影響で、僕は普通のオフシーズンを送ることができなかった。チームメイトやコーチたちと関係を築き、実力をアピールすることもできなかった。選手たちは施設を使うことも、コーチと話すことも禁止されていた。僕はただの背が低いレシーバーとしてトレーニングキャンプに参加するしかなかった。

 

練習の初日、誰も僕に話しかけてこなかった。 僕はコーチたちに、自分がバーサタイルだと知って欲しかった。そこで、スペシャルチームのアシスタントコーチに「僕はタックルできてスペシャルチームでもやれます」と話した。彼はまったく相手にしてくれなかった。僕が唯一、ヘッドコーチと交流したのは、練習でスカウトチームのCBをやっていて「シャツをズボンの中に入れろ!」と怒鳴られた時だけだった。

 

翌朝、僕は解雇された。

 

 

 

それは2011年の秋になろうかという時期だった。体重計に乗って、NFLを目指そうと決心してから、もう4年が経っていた。僕はNFLでたったの1日すらもたずに解雇されてしまった。僕が夢を追いかけている間に、彼女は妊娠して、もうすぐ子供が産まれようとしていた。家族を養わないといけなかった。

 

僕はアルエッツのHCマーク・トレストマンに電話して、解雇されたこと、子供が産まれること、そしてチームに戻りたいと伝えた。安定した収入が必要だった。彼は「数日考えるといい。それでも戻りたいなら喜んで契約するよ」と言ってくれた。

 

次に僕は友人のランス・ムーアに連絡した。彼はセインツのベテラン・レシーバーで、トレド大学ではチームメイトだった。彼も苦労してNFLに入った選手で、僕の話を聞くと、すぐにセインツのGMと会って、僕のことを売り込んでくれた。

 

その日の夜遅く、トレストマンから電話があって、「セインツが君をウェイバーで獲得するようだ」と教えてくれた。これが本当のチャンスだ。ニューオリンズに行くんだ。僕はすぐに荷物をバックに積め始めた。

 

翌日の5時頃、エージェントからの連絡があった。ベンガルズとセインツの両方が僕をウェイバーでクレームして、成績の悪かったベンガルズに契約の優先権があることを知った。僕はニューオリンズではなくシンシナチに行くことになった。

 

僕は新天地で良いキャンプを過ごし、プレシーズンでも活躍することができた。しかし、前にも言ったように、ベンガルズには良いレシーバーが揃っていて、僕が残れる数的な空きはなかった。チームは僕をカットして、プラクティス・スクワッド(練習生)に登録した。

 

多くの人たちは僕に同情してくれた。彼らは事情を知っていて、僕が落ち込んでいるだろうと思っていた。しかし実際には、僕は有頂天になっていた。CFLから比べると着実にステップアップして、NFLでプレイするチャンスを掴んでいたからだ。

 

さらに付け加えるなら、僕には子供が産まれようとしていた。CFLでは1年目に4万5,000ドル、2年目に5万5,000ドルの給料をもらっていた。NFLの練習生として、僕は約10万ドルもらうことになっていた。経済的にはこれ以上ないほどハッピーだった。

 

とはいえ、僕の目標、夢はずっと変わってはいなかった。とにかく1試合でもNFLでプレイしたい。それだけだった。たとえ1試合でも出場できたなら、僕の夢は間違ってなかったと確信できる。これまでの苦労も報われる。たったの1試合。それで自分が正しかったのだと証明できる。

 

僕はプラクティス・スクワッドに2週間しかいなかった。ジョーダン・シプリーが膝を怪我して、コーチのオフィスに呼ばれると、僕はロスターに昇格することになった。

 

とうとう僕の出番がやってきた。もう後ろは振り返らない。

 

 

 

僕はベンガルズで3シーズンを過ごした。そして2014年シーズンの前、僕はブラウンズと4年1360万ドル(約14億円)の契約をして移籍した(制限付きFAだったホーキンスに、ブラウンズが契約をオファーして獲得した)

ブラウンズはいつも僕が行き着く先だと感じていた。何度か契約に近づきながらも実現せず、紆余曲折を経て、僕は一番最初に契約するはずだったチームに戻ってきた。

 

僕は今でも試合の前に泣いてしまう。この気持ちを言葉で説明できればと思うけど、それは無理だ。涙が頬を伝うたびに、これまで乗り越えてきた苦難を思い出す。僕は不可能と思われた夢を実現することができた。

そう、時には知恵を絞る必要もあった。嘘のメールで騙して契約したエージェント、彼は今でも僕のエージェントをやっている。彼は「あの時に騙されたせいで、50万ドル近いお金と親友を手に入れた」とジョークを飛ばしている。

 

だから、もし「Hawk、夢を実現するには何が必要?」と問われたら

僕は「必要なことはなんでもやる」そう答えるよ。

 

 

 

 

アンドリュー・ホーキンスの成績  

Andrew Hawkins, WR for the Cleveland Browns at NFL.com

 

2008年ブラウンズのミニキャンプ動画

www.youtube.com